気まぐれ日記 2014年12月
2014年11月はここ
12月1日(月)「早く寝たいよー・・・の風さん」
昨夜も大事な手紙を書いていたので就寝が遅くなった。
午前3時半に寝て10時に起きたから、ま、いっかー(^_^;)。
とにかく大事な手紙だったので、朝食は摂らずに郵便局へ直行して投函した。
今日も仕事をたくさん処理しようと頑張ったが、予定外の仕事もやってしまった。
作って送ったばかりの書店用ポップを縦長でなく横長にしてくれという注文が入ったため、急きょ、3種類とも作り直しPDFにして送った。
それから、早くも来年の同期会の(退社した会社の)日程候補が明らかになったので、関係者にメールして、確定させた。6月5日である。
今夜も就寝が遅くなった。木曜日の非常勤講義の準備をしたからだ。配布資料を作って事務室へメールし、印刷をお願いした。
ベッドに潜り込んだ時刻が午前3時。
12月2日(火)「富士山のご威光・・・の風さん」
午前8時半起床。
冷たい風が吹く中、最寄りの駅へ。明日は最後の中小企業大学校での講義である。
行きの名鉄電車も新幹線の車中も、ひたすらドイツ語の勉強。
出発が近付いてきて、いよいよ焦りが……。
しかし、今日の富士山はきれいだった。思わず、反対側のシートへ移動して、iPhoneで写真を撮った。そして、フェースブックにアップしてみた。
今日は、大学校へ行く前に、紹介してもらった某出版社に寄って、来年、本が出せないか相談するので、早目に上京した。
初めて行く出版社だったが、何とか無事にたどり着け、1時間半近くも相談ができた。頑張って出版社の期待に応えられる本を作りたい。
大学校の寮にチェックインし、ドイツ語の勉強をと思ったが、他の用事でいっぱいいっぱいだった。
その間に、嬉しいことがあった。新幹線からアップした富士山の写真に対して、次々にコメントや写真の挿入があったのである。
やはり日本人のハートに響く何かが富士山にはあるんだなあ。
12月3日(水)「最後の講義・・・の風さん」
中小企業大学校での講義は今日が最後になるが、同じメンバーで7回目なので、もうすっかり波長が合っている。
講義開始前に、大学校から富士山が見えることを知り、全員、富士山を眺めた。昨日の富士山と同様に間近で、しかも雲一つない青空の下にそびえていた。
講義は快調に進み、昼の休憩時には全員でコーヒーを飲み、今日は特別メニューで個人面談もやった。
そして、あっという間に終了時刻が迫ってきた。
実は、今日は、最後に、自分の正体を明かそうと、16日のジュンク堂池袋本店でのトークセッションを紹介するプリントを用意していた。
それを全員に配り、さらに作家の名刺も渡した。
あまりの意外性にとまどっているようだったが、やがて面白がっているようでもあった。
全員で東大和市駅まで歩き、最後の一人とは品川駅まで一緒で、もしかすると何人かがトークセッションに来てくれそうだと思った。
中の一人からフェースブックの友達リクエストも届いた。
新刊の贈呈先からケータイに「届いたよ、ありがとう」という電話も入った。
帰りの車中も読書などで一睡もできなかった。
12月4日(木)「出発まで時間切れ寸前・・・の風さん」
午前中、ドイツ出発前としては最後の筋トレに行くはずだった。しかし、ドイツ旅行の準備があまりできていない今、もうそんな余裕はなかった。もちろんドイツをレンタカーで軽快且つ安全に走破するためには、基本的体力が不足していることは認識している。それでも、出発前夜に徹夜するわけにはいかないのである。
新刊の出版が少し遅れてドイツ出発直前になったのはやや痛かったが、愚痴を言っても始まらない。
JAへ行き、旅行中の現金を確保した。さらに常滑の陶器店に行き、ドイツへ持って行く秘密のお土産を購入した。
愛工大の非常勤講義を終えて帰ってきたが、ゆったりしている余裕はなかった。
リビングに置いたキャリーケースに、猫が邪魔するのを払いよけながら、持って行くものを次々に放り込んだ。
12月5日(金)「出発前日に浜松出張・・・の風さん」
早起きし、キャメロンで浜松まで出張した。片道130km強ある。ドイツへ行ったらこんな距離は移動で軽く突破してしまう。
そう思いながらも慎重に運転し、浜名湖が見えるサービスエリアで時間調整を兼ねた休憩をした。
とても寒かったが、浜名湖がきれいだったので、ケータイで写真を撮った。あとでフェースブックにアップするつもりだ。
出張はJMAの生産技術マネジメント研究会の企業視察で、午前中は工場見学が中心だった。まだ日本工場の生き残りといった悲壮感がなく、モノづくりの改善(無駄の排除による生産性向上)に力を入れている姿が印象的だった。付加価値の高い製品を作っている会社は、しぶとく国内で頑張っているのである。
昼休みに、旅行代理店から教えられた、ルフトハンザ航空のウェブサイトにアクセスして座席指定をとることに挑戦したが、何と既に3人分が並んで確保されていた。旅行代理店に電話すると、原因は不明とのことだった。
旅行の準備があるので、2時間早い午後3時にチームミーティングの途中で失礼し、家路についた。
明日から連休をとる長女は、今日もギリギリまで働いているはずである。徹夜で旅行の準備をすることがないように、早く寝て睡眠をしっかりとるようにメールしたが、返事はなかった。
帰国してからもスケジュールがてんこ盛りなので、せめて1週間分は出発前に準備したかったができなかった。
しかし、ここまでやりきったという感覚はある。
それでも私の就寝時刻は午前3時ころだった。長女はとっくに寝たらしい。よかったよかった。
12月6日(土)「4ヶ月ぶりの再会・・・の風さん」
私とワイフが1週間留守にするということは、ペコとちび助(と冬眠態勢に入った亀)が留守番ということになる。
私はペットホテルに預けることを提案したが、家族の反対にあい、留守中は義母がときどきケアに来てくれることになった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。
早朝からバタバタと出発の準備をしている私たちを見て、猫たちも何か感じて落ち着かない様子である。
10時25分発のルフトハンザで行くので、その2時間前に長女と合流する約束もしていた。長女の場合、電車で向かうので、人身事故でもあるとたちまち1時間の運行停止が起きる。だから、2時間前を指定していた。
ところが、それをきちんと守った長女に対して、ワイフのアクアで向かった私たちは15分以上も遅れてしまった。長女は、初めての海外旅行だが、私の指示を忠実に守っただけでなく、本当に気持ちが盛り上がっていて、弾むように空港までやってきたのだ。
航空会社のカウンターでのチェックインやキャリーケースの預けを済ませ、適当な金額のユーロへの両替も終え、セキュリティチェック・出国検査を通って出発ロビーに入った。目の前にある免税店が海外旅行気分をいやが上にも盛り上げた。約4ヶ月前、次女もここを通ってドイツへ向かったのだ。
出発ゲートをケータイのカメラで撮影して、すぐフェースブックにアップした。少なくとも旅行中は気まぐれ日記を更新できないので、フェースブックで知人・友人らに消息を伝えるつもりだ。
Guten Morgen! と言いながら、ドイツ人スタッフがほとんどのルフトハンザに搭乗した。
昨日までの1ヶ月間で、40年前に勉強したドイツ語の教科書を読破していた。ここからは電子辞書にあるドイツ語の例文をできるだけ用いて旅行するつもりだ。ドイツ語で苦しんでいる次女の疑似体験でもあり、私自身の楽しい挑戦でもある。
搭乗中は主に飲み物の注文にドイツ語を使ってみたが、ドイツ人CAの女性はあまり反応してくれなかった(愛想がなかった)。
Mineralwasser mit Koehlensaure bitte.(炭酸入りのミネラルウォーターをください)
エコノミー症候群が心配される長女に、用がなくても機内を歩き回ることを勧めた。
ドイツ語会話の勉強の他に、映画を1本だけ観た。新しい映画で『柘榴坂の仇討ち』である。ヘッドフォンジャックの調子が悪いので、英語の字幕にして、無声で鑑賞したのだが、中井貴一や広末涼子の演技力もあって、感動した。原作はつい先日文庫で購入したばかりなので、帰宅したら時間を見つけて読んでみたい(英語の字幕の見られるDVDがあったらそれも欲しい)。
睡眠不足で搭乗したので、機内では短時間でも熟睡できた。
これまで徹夜や半徹夜を何度も繰り返しているので、時差のためにこういう不規則な時間を過ごすのは抵抗がない。
8時間の時差で現地時刻の午後3時ころにフランクフルト空港に着いたのだが、半徹夜で遅く起きたときと同じ体調だった。そして、今回ありがたかったのは、いつも経験する気圧差による耳の不調をほとんど感じなかったことだ。
入国審査では、担当官に適当にあしらわれた感じで、あまり良い気持ちはしなかった。もっともここでよく使われるドイツ語を頭に入れる力はなかった。
続いて、レンタカーを借りに行ったのだが、広いフランクフルト空港の中でも、レンタカーエリアは遠かった。
カウンターの手続きでは、乗り捨て代をクレジットカードで支払う必要があり、パスワードを覚えていない私は、サインでやりたいと申告して、少しいやがられた。
Ich moechte mit Unterschrift versehen.
借りるまで車種は不明だったが、ようやく判明した。フォルクスワーゲンのティグアン。後で調べてみたのだが、2リッターの直噴ディーゼル。6速ATで140馬力。最高速は182km/hとやや物足りないスペックだった。
そこからまたクルマが置いてある場所までが遠かった。やっとたどり着くと、担当者がいて教えてくれたクルマが紙に書いてあるのと違う。しかし、カギがかかってなかったので、荷物を積み込んでさあエンジンをかけようとしたらかからない。カギが入らないのだ。カギにはフォルクスワーゲンのマークがついているが、クルマはオペルだった。そこでさっきの担当者に、こちらのクルマじゃないのかと、数台離れたフォルクスワーゲンを示し、カギをプッシュするとドアが空いた(笑)。このティグアンの色はピュアホワイトだった。
一難去ってまた一難。5年ぶりの再現で、ナビに目的地が入力できない。ここでまた、さっきの担当者の出番だ。今夜のホテルのバウチャーを示すと、住所を入力し始めた(さっき試して、電話番号入力ができなかった)。
こうしてやっと出発できたのだが、既に午後4時をだいぶまわっていた。ずっとWiFiが使えない環境にいたので、長女に頼んで、待っている次女に電話させることにした。一方私は、5年ぶりの右側通行と左ハンドルそして何を言っているか分からないナビに慣れることに専念した。
既に夕闇が濃く、しばらく走ると、早くもアウトバーンに入ったようだった。土曜日だが交通量が多い。5年前は日本の癖で左端をゆっくり走ってしまったが、今回は右端をゆっくり走ることに成功した。
長女は次女と電話でき、私たちが無事にフランクフルトに着いたことを伝えることができたが、ナビの示す予想到着時刻が6時半で、2時間以上もかかる。おまけに目的地までの距離が280kmと出ている。レンタカー会社の担当者が入力してくれた目的地が正しいのかどうか、とても不安になってきた。私は、日本で、フランクフルト空港からワイマールのホテルまでの道路を事前に調べて印刷してあったのだが、助手席のワイフには、それを見ても今走っている道路が、正しくワイマールへ向かっているか分からないと言う。そのうち、トイレに寄りたいからどこかへ寄ってくれなどと言い出す始末。しかし、うまい具合にサービスエリアがあって、そこへ入ることができた。
人気のほとんどないサービスエリアにレストランと売店があった。そこでゆっくり気持ちを落ち着けて、再び長女に次女へ電話させ、到着時刻は7時を過ぎそうだから、先にホテルへ行って待つように伝えた。少なくともワイマールへ向かってはいるようだった。
その後、途中で霧の中へ入ったり、小雨が降ってきたり、道路工事があったり、色々だったが、最高で170km/hを出して着々と目的地へ近付いて行った(右端を140km/hで走っていても前のクルマに追い付けないことはいくらでもあった)。
やっとアウトバーンを降りてからホテルまではほぼ道なりだった。ホテルが目前になって、また長女に電話させ、次女に道路に出てきてもらうように頼んだ。
午後8時ころ、こうして私たちはほぼ4ヶ月ぶりに再会したのだった。
次女によると既にチェックインをすませ、カギももらっているという。ティグアンはホテルの駐車場ではなく、目の前の道路に置くように指示された。私たちはホテルのフロントを通らずまっすぐ部屋へ向かい、荷物を置いてすぐ外出した。
次女が私たちをすぐ連れて行ってくれたのはクリスマスマーケットだった。小さな町だと思ったが、マーケットはマルクト広場を中心に広がっていて、イルミネーションがきれいだったし、ここだけは大勢の人で賑わっていた。見物して歩きながら、Gluehwein
を飲み、有名な Thueriunger Bratwurst を食べた。なんとワイマールはテューリンゲン州に属するのだそうだ。グリューワインはディズニーシーで初めて飲んだが、本場のものは抜群に美味しかった。長いソーセージをはさんだだけのパンはけっこうボリュームがあった。これが今夜の晩御飯。
続けて、次女の寮(バウハウス大学の寮はあちこちにあるらしいが、ここは大学のすぐそば)へ行き、彼女の普段の生活を想像しているうちに、留学生の友達がやってきた。エジプトから来ている男子学部生で、皆で折り紙をすることになっていた。
この頃からバテ気味の私は眠くて眠くてどうしようもなくなってきた。国際交流は皆に任せ、私はウトウト……。
バスで帰る彼を見送ってから、家族全員ホテルに帰り、それぞれの部屋に入った。ツインを2つ確保してある。今夜、姉妹はどんな話をするのだろうか。私たちはとにかく次女が元気だったので安心した。
12月7日(日)「次女のガイドツアー・・・の風さん」
8時に家族4人、朝食を摂るため小さな食堂に入った。クリスマスムードいっぱいでテーブルの上には小さなサンタも。一番乗りの私たちのためのように突然流れ出した山下達郎の「クリスマス・イブ」。もちろんドイツ語のカバーだ。次女に言わせると「こっちでもよく聞くよ」とのこと。でも、これはホテル側の粋なはからいに違いない。
ゆったりした朝食後は、次女のガイドによる市内観光だ。気温は1℃前後とかなり寒いはずなのだが、風がないのであまり寒さは感じられない。バウハウス大学の公園を抜けて、最初に行ったのはアンナ・アマリア図書館(ビブリオテーク)で世界遺産だという。2004年の火災後の本の修復の様子が、東日本大震災を思い出す。
次はヘルダー教会(聖ペーターパウル市教会)。高倉健さん風の帽子もここでは脱いで配慮。しかし、ベンチで休息(笑)。
昨夜に続いて、今度は昼間のクリスマスマーケットを見物。いよいよ雑貨類の買い物も開始。昼食にまた Thuriunger Bratwurst を食べた。
午後は、城(シュロス)美術館。バウハウス大学で絵画を学ぶ次女はもう数回訪れているらしい。ロの字形になったお城の建物の内部の半分くらいを利用した美術館で、午前中の図書館と同様に、展示してあるものだけでなく、建物や内装、窓から見える屋外の風景も印象的で、いくら眺めていても飽きないため、べらぼうに時間がかかる。私は途中で何度もベンチに腰掛けて休みながらの鑑賞だった。
写真撮影がほとんど許可されているのもおおらかで気分が良かった。
外へ出てイルム川にかかる橋をわたり、川辺で鴨とたわむれた後、林の中を抜けて、朝通った公園に入り、ホテルで1時間ほど休息することになった。私が疲れている様子なので、次女が気を遣ってくれたのだ。わずか4ヶ月の間の次女の成長を感じて胸が熱くなる。ホテルのロビーの呈茶サービスで私はカモミール茶をもらって部屋へ入った。
夕食は徒歩で市街地にあるビール工場併設と思われるレストランに連れて行ってもらった。先客はワンカップルだけで、私たちを珍しそうに見ていた。ドイツ料理がけっこうボリュームがあるので、ワンドリンクを注文した後、メインもワンディッシュだけだ。メニューの解読が難しく、意味がよく分からなかったので、私はドイツ定番のシュニッツェル(Schnitzel)にした。例によってドイツ語で注文してみる。
これだけで、チップ含めて62ユーロだった。
帰り道、空を見上げると満月だった。
クリスマスマーケットでまたグリューワインを飲んでいたら、仮設スケートリンクをすべっている次女の友人と遭遇。二人の男子中国人留学生で、質問したら寧波から来ているという。底抜けに明るい若者たちだった。次女によると、中国人留学生の共通の特徴らしい。やはり国の勢いか。
明朝は学校がある次女の都合に合わせて今朝よりさらに30分早く朝食にするため、ホテルに戻った。
ホテルでは部屋に入るとWiFiをつないでメールチェックしたり、フェースブックに写真をアップしたりした。
12月8日(月)「ローテンブルク再び・・・の風さん」
ドイツへ出発する前に時計の時差の対応はしてあった。普段使っている腕時計が2つとも電波時計で世界対応ではなかったので、わざわざ古いクォーツ腕時計に電池を入れて、出発前からドイツ時間にしてあった。デジカメも時計も同様にドイツ時間に合わせて出発していた。そして、目覚まし時計として使うため、別にトラベルウォッチもドイツ時間にして持って来ていた。
これらはすべてiPhoneの時計が日本時間のままだろうという予測が前提にあった。
ところが、不思議なことに(私が無知だからなのだが)、フランクフルト空港に着いてまもなく、出発前から機内モードにしてあったiPhoneの時計がドイツ時刻を示していることに気が付いたのである。空港内では結局いちどもWiFi接続の確認はできなかったので、これは驚きだった(実際は、時間帯を自動設定にしておくと、現地の携帯電話網やWiFi、位置情報サービスなどから自動的に切り替わる。自動がダメでも、iPhoneには世界時計機能があって、マニュアルでもできる)。
トラベルウォッチとiPhoneのアラームが鳴る前に早々と起きた。
今日も食堂に我が家が一番乗りで、7時半から朝食になった。まだ暗い外の風景も気にならない、内部の明るいクリスマス気分だ。
それから皆で次女を寮まで送って行った。建物の入り口で別れるとき、「体に気を付けてね」と涙ぐむワイフを見て、今回の旅行の意義が果たされたことを感じて、私も目頭が熱くなった。
ホテルに戻り、チェックアウトのときに想定外のことが起きた。
Ich moechte jetzt abraisen. 「チェックアウトお願いします」Ich moechte mit Kreditkarte bezahren. 「クレジットカードで支払います」
まではよかったが、ここでは署名はダメで、暗証番号でないと受け付けてくれないというのだ。
普段使用しているJCBカードが使えないので、わざわざ Mastercard と Visacard を持ってきたのだが、暗証番号を事前に確認していなかったので、ここでは対応ができなかった。止むを得ず、現金(ユーロ)で支払ったのだが、現金使用計画が大きく崩れた。ここのホテルと最後のホテルは自分で予約したので、現地支払いなのである。
午前中の最後のワイマール観光の中に、Deutsche Bank が急きょ組み込まれた。
その後は、2軒の書店(1軒には店内に猫がいた)とワッフルの店に、長女のナビで見事に誘導され、すべて目的が果たされた。昨日よりも青空が広がっていて、日本円をほとんどユーロに変えてしまったが、前途は明るくなっている気がした。
昼前にティグアンのナビにローテンブルクをセットして出発した。
最初は2日前に来た道を戻る方向で走っていたが、まもなく進路は南に向けられた。
そして、やや高地に入ってトンネルも抜けるうち、周囲は雪景色になり、速度制限(80km/h)も出るようになった。
5年前にも感心したことだが、ドイツ人は制限速度を忠実に守る。
ティグアンの室外温度計は零度以下にならなかったので、降雪は心配なかったが、中央寄りの車線に雪が残っているところがあった。
ティグアンの燃料計が半分以下になっているので、サービスエリアに寄って、セルフできっちり40ユーロ給油し、レジで支払った。給油口にカギがないことや、セルフ給油など、かつての経験が生きた。
ここで軽食を摂ることにしたのだが、カフェテリア方式で、ちょっとたくさん食べ過ぎた。有料トイレの利用で、売店のサービス券が得られ、ミネラルウォーターを購入した。
もう雪景色はなく、ときおり日が差す中、牧草地が広がっていて、これがドイツの田園風景だよ、と長女に自慢できた。
城壁で囲まれたローテンブルクにはいくつかの出入り口がある。5年前はシュツットガルトから向かったので、南のコボルツェラー門から入った気がする。今回は北のガルゲン門から入った。城門は狭く、クルマは一台ずつしか通れない。
5年前と同じホテル、アイゼンフートを予約しているのだが、市庁舎前のマルクト広場のすぐ近くで、クリスマスマーケットのために交通規制されているのではないかと思ったが、そんなことはなく、ホテルの目の前に駐車できた。
フロントへ行くと日本人カップルと同時にチェックインする形になった。駐車料金は1日10ユーロだと言われた。
ホテルが混んでいたのか、5年前と違って、通りの反対側の建物の部屋が提供された。中世のお城のような建物である。ただし、ワイフと長女の部屋は内装がリノベーションされていて、現代風の王女さまの部屋になっていた。一方、私の部屋は、すべての明かりをつけても内部は暗く、絨毯を敷いた床は窓際からドア方向へ向けて傾斜していて、ベッドも調度類も中世からの物らしく、悪魔か妖怪が出てきそうな雰囲気だった。
早速外出した私たちは、有名なクリスマスショップ「ケーテヴォールハルト」をじっくり下見し、クリスマスマーケットでグリューワインを飲んだりした。
夕食は、5年前に行った店をワイフが覚えていて、そこへたどり着いたが満席だったので、ぶらぶら歩いて、リーズナブルな料金らしいホテルレストランに入った。なんとホテルゾンネのチェーンだった(ゾンネとは縁が深い)。昨夜に続いて、ワンドリンクを注文したあと、ワンディッシュだけを注文した。本当にこれだけで日本人には十分である。
隣のテーブルでクレジットカードでサインをして支払っていたので、現金を使わないで済むと思い、クレジットカード支払いを申し入れた。そして、請求書(Rechinung)にほぼ10%上乗せたした金額を提示すると了解された。クレジットカードは最も新しいもので、電話番号や生年月日と関係ない数字になっている可能性があったので、暗証番号は忘れたがトライしてみると言ってボタンを押したら……なんと通った!(マージャンじゃあるまいし)これで、この先の資金不足の不安は解消されたので、私の足取りは軽くなった。
12月9日(火)「早くもバテている風さんの巻」
通りの向かいの本館へ行き、朝食を摂った。ここの朝食は贅沢なので、長女に楽しんでもらいたかった。日本人がたくさん宿泊していると日本食もあるのだが、今朝もあった(私は取らなかったが、長女は漬物を取っていた)。オレンジジュースは、オレンジを半分に切って、つぶしながら絞る機械がある。ワッフルを焼く機械もあって、どちらも利用しない手はない。朝からスパークリングワインなども飲める(欧米人が飲んでいた)。
サービスの女の子が、いかにもドイツ人らしい顔つきで(しかしほっそりしていて)可愛かった。常に周囲に気を配っていて、皿が空くとすぐに片付ける。長女もこういった仕事を毎日やっているのだろう。
実に朝食に1時間半もかけて満腹になった私たちは、観光とショッピングに出発した。観光はローテンブルクが初めての長女のためだ。
市庁舎の塔には私たちが一番乗りだった(屋上が狭いので、人数制限されている)。
あいにくの曇り空と霧で、城外の田園風景を見渡すことができなかった。
後から登ってきた人たちは東洋人ばかりで、日本人と写真の撮りっこをした。
5年前に発見した1ユーロショップをワイフが覚えていて、そこにもたどり着くことができた。残念ながら1ユーロの品揃えが減っていて、来週のトークセッションで配るお土産は十分購入できなかった。
あちこちで細々したものを買い(ワイフが)、イタリアンのサンドイッチショップで昼食も摂り(これも量が多過ぎた)、いったん荷物をホテルの部屋に置いた後、犯罪博物館に行った。長女に見せるためだ。ここはディズニーリゾートでなく、本物の中世の街だったと思わせるためである。
ケーテヴォールハルトでの買い物も終え、夕方になって、私はすっかり疲れてしまい、一人ホテルで休息をとることになった。ワイフも長女も買い物を続ける体力はまだ無尽蔵に残っているらしい。
1時間後にホテルのロビーで合流したが、私の疲労はとれておらず、二人は依然として元気だったので、さらに1時間、私はロビーでiPhoneをいじり、二人は買い物に戻った。
あまり空腹ではなかったので、今夜はレストランでの食事はやめて、シュネーバル(Schneeball)の店に入って、それぞれ1個を選んでカプチーノで終わりにした。シュネーバルは雪の玉という意味のお菓子で、大きなクッキーで種類がたくさんある。日本で売ってもきっと人気商品になるだろう。
実は、昨夜下着の洗濯をしてみたのだが、スチームを効かしてもひと晩では乾かず、今夜やっと乾燥し終わっていた。
明日はティグアンでかなりの長距離を走ることになる。疲労をとるために早目に寝た。
12月10日(水)「25年前の足跡を求めて・・・の風さん」
ホテルアイゼンフートで2日目の朝食は余裕があった。昨日で勝手は熟知しているので、希望のものを手際よく持ってきて、適量を食べた。ワイフはスパークリングワインを楽しんでいた。
駐車料金をクレジットカードで支払い、どこかから持ってきてくれたティグアンに乗り、ナビにアウグスブルクの市庁舎を目的地セットした。
ロマンチック街道をどんどん南下していくのだが、気温が上昇しないのは前もって知っていた。
アウグスブルクもクリスマスマーケットで有名である。ここでの心配は駐車場である。有料駐車場が見つかればもちろん利用するつもりだ。
ところが、けっこう都会のアウグスブルクは、市電も走っていて、勝手に止められる場所もなさそうだし、駐車場を示すPの字も見つからなかった。とうとう市庁舎近くまでやってきて、駐車場が見つからないうちに、まもなく通り過ぎてしまった。
再び戻ってくるときに、狭い脇道に入って行ったら、無料と思われる小さな空き地があり、道路わきにクルマがずらりと駐車してあった。辛抱強く待っていたら、1台が抜けていったので、そこへ縦列駐車することにした。
フルボディのティグアンは大きくて、縦列は難しかったが、ワイフと長女を降ろして、前後を見てもらいながら絵に描いたような美しい縦列駐車ができた。降りて、前後左右から写真を撮り、あとでフェースブックにアップすることにした。
市庁舎前の広場のクリスマスマーケットは、ワイマールやローテンブルクのマーケットよりも、一軒一軒の店構えが大きかった。
テューリンガーかどうかは不明だが、Bratwurstで昼食代わりにした。
アウグスブルクの滞在は1時間ほどで切り上げ、私たちはさらに南下した。
次の目的地はヴィース教会である。ここは留学した次女も訪れていて内部が美しい。涙を流したという伝説のあるキリスト像が安置されていて、世界遺産でもある。だんだん目的地に近付くと、非常にひなびたところにあることが分かった。
既に夕方ということもあるだろうが、駐車場にはほとんど車がない。授業参観なのか、子供たちを乗せたバスが来て、フランス語をしゃべる子供たちと一緒になった。子供はどこの国でも一緒なのだろう、見学の主旨などおかまいなしで、騒いでいる。私たちに近寄って写真を撮ってくれた子もいたが、あまり上手に撮れていなかった。
教会に入ると、引率の先生は「静かに」と注意していたが、皆勝手に写真を撮ったりしていた。私たちもシンプルな建物と違ってきらびやかな内部に目を奪われて、ひたすら写真を撮りまくった。もともと信心もないし。しかし、寄付の意味も込めて、ガイドブックやろうそくを購入した。代金を入れる貯金箱のような箱に、持っている小銭をすべて入れてしまったので、後で困った(笑)。
駐車場近くの土産物屋も覗いてから、ナビに次の目的地をフュッセンのホテルゾンネに設定した。そこは泊まるためではなく、今日の最終目的地の途中であり、5年前に泊まった思い出のホテルだったからだ。
アウトバーン以外の田舎道は、5年前の記憶ではほとんど速度制限がなかった。しかし、今回のナビで見ると、100km/hと表示される。さらに、田舎道から集落に入ると、5年前は70km/h制限だったが、今回は50km/hになる。この5年間で規制が厳しくなったのかもしれない。
フュッセンの街に入ってまもなくホテルゾンネに近付いたが、ティグアンを駐車して眺めることができなかった。
離れたところで、今日の最終目的地、ロマンチックホテルゾンネをナビに目的地設定した。太陽が沈まないうちに到着したかった。ゾンネとは太陽という意味だが、これは洒落ではない。
ロマンチックホテルゾンネには、25年前、ボッシュに2週間ほど出張したとき滞在した。リゾート地にある長期滞在型のホテルで、私には懐かしかった。そして、そこのホテルの記念帳に、絵と一緒に何かをたくさん書き込んだ記憶があるので、それをもう一度見ることと、家族にも見せたかった。
フュッセンからホテルまでは距離はそれほどなかったが、山越えルートだった。国境の山々は雪に覆われていて、ホテルまでは平地を走るものと想像していたが違った。幸い走っているクルマはほとんどなく、零度近くまで冷え込んでいて、走行に不安があったが、慎重に走らせることができた。
町の中のホテルに着いて、記憶にある建物の裏の駐車場にティグアンを止めた。まだ日没前だったので、到着している客は少ないのだろう、クルマも少なかった。
フロントへ行き、チェックインと同時にいくつかの相談をした。真っ先にしたことは、明日のノイシュバンシュタイン城観光のことだ。日本で長女が買ったガイドブックには、インターネットで事前予約ができると書いてあった。それで昨夜アイゼンフートで試みたのだが、途中で作業はできなくなった。どうも2日以上前でないと事前予約はできないらしい。それで、ホテルのフロントで無理が通らないか確認したのである。さすがにもうドイツ語では意思を伝えられないので、英語で適当にやりとりした。フロントの男女は、ネット接続を試みたがやはりだめで、次に電話をかけてくれたが、相手は出なかった。チケットセンターは既に閉店になっている時刻だった。結局、明日は、行き当たりばったりということになった。できればミュンヘンでクリスマスマーケットやショッピングの時間を得たい私は、なるべく早い時間での見学予約をしたかったのだ。
WiFi接続のパスワードをもらった後、いよいよ記念帳の件に入った。1989年9月ごろの記念帳を見たいと申し出ると、先週までクリスマスマーケットがあって、どういう関係があるのか理解できなかったが、記念帳はここにはないという。オーナーに尋ねてみるから、分かったら電話するよ、ということだった。早朝からの運転で疲れてもいた私は少し拍子抜けして、結果を待つことにした。
部屋は広くて快適だった。私の部屋に3人が集まって、夕食までどうするか相談をしたが、私が提案したエステとかサウナにワイフや長女はあまり興味を示さず、私は急いで来た意味がなくなりそうで、気持ちが落ち込んできた。さらに、自分でホテル内を歩き回って、25年前にボッシュのシュバルツと一緒に入ったサウナを探したが見つからず、ますます気持ちが萎えてきた(ここには温水プールもあるのだが、それらは地下にあって、私は地下に全然気が付かなかったのだ)。
夕食の時間が近付いて来て(チェックインした時に予約しておいた)、3人でレストランに向かった。ここの料理は非常に美味しかった記憶があった。そして、通訳の人から教えてもらって、美しい女性のサービスの人にドイツ語でデザートを注文した。
Fraeulein ober, Kuchen bitte mit viel Sahne. 「お嬢さん、お菓子をください、生クリームをたっぷり添えて」
ほとんど英語が見られないホテルで、レストランでは英語のメニューが提供されたが、よく分からなかった。事前に、ドイツ語のレストランメニューで調べておいたので、気になるものを頼んでみた。
しばらくすると次々に客がやってきた。けっこうたくさん宿泊しているのだ。
私はこれがドイツ国内最後だと思って500mlのピルスナーを頼んだ。
料理は美味かった。ワイフが頼んだスペアリブは、豪快な食べ方が必要だったので、私のと交換した。
支払いはチェックアウトのときにすることにして、サービスの女性(ドイツ語しか話さない)にユーロでチップを上げたら大げさに喜んでくれた。
その夜は、ホテル側から何の連絡もなく、私は明日の不安も抱えながら、今回の旅行の終盤に来て、大きな目的の一つを果たすことができなくなるのではないかとぐっすり寝ることができなかった。
12月11日(木)「記念帳は見られなかったけど・・・の風さん」
早起きしていつでもホテルを出発できる用意をした。
記念帳を自分の目で見ることはできそうもないが、もしホテル側が誠意ある探し方をしてくれなかったらどうしようと気になってしようがなかった。せっかくお土産まで持ってきたというのに。
朝、iPhoneでWiFiにつなごうとしたらうまくつながらなかった。やり残したことが多いのは何とも悔しいので、部屋から電話してWiFiがつながらないことを訴えたら、新しいパスワードを教えてくれた。しかし、アルファベットをドイツ語でしゃべっているので、どうにも聞き取りにくい。特にaとrが「アー」なのか「アール」なのか分からなかった。でも、きっとどちらかだろうと安易に考えて、電話を切った後接続にトライしたが、どちらでもダメだった。朝食後にフロントで再確認しようと思った。
再確認はもう一つ考えた。朝までにサウナが地下にあることを思い出したのである。朝食後、フロントで記念帳のことを訪ねたら、その後、地下まで探検に行こうと思った。そして、ワイフや長女にもそこを見せようと、ささやかな試みを思い付いたのである。そこまでやらなければ、はるばるアルゴイ地方、ゾントホーヘン、リンデラングのリゾートホテルまでやって来た意味がない。
朝食では、野菜をたくさん取った。生野菜とか温野菜でなく、野菜スティックである。今回のホテルではここだけだった。それから、この地方はチーズが名産のはずなので、ブロックから一切れのチーズを切り取った。あとはどこでも美味しかったドイツのパンだけで満腹になった。
そして、いよいよフロントへ。最後のチャレンジになるだろうと思い、内心緊張していた。
フロントには女性がいたのだが、昨日の女性と同じ人だと私は思っていた。それで、先ずWiFiのパスワードを確かめると、すぐにプリントしてくれて、それを見ると、私が聞き違えたのは、rとlだった。それから、記念帳は見つかりましたか、とダイレクトに聞いた。
実は、このフロントの女性は、昨日の女性とは別人で、服装は従業員を連想させる民族衣装だったが、このホテルのオーナー夫人だったのである。まだ気が付かない私は、彼女が、記念帳はここにはないので、あなたの記録を探してみたが、記念帳はたくさんあるし、見つけるのが困難だったと説明するので、その努力を評価して、お土産を渡すことにした。できれば、フロントに置いてもらいたかった。
箱に入ったお土産を渡しながら、ホテルへのプレゼントだと念を押した(相手がオーナー夫人だとまだ気付いていなかったから)。
そして、すぐ包みを開けるように促すと、彼女は言われる通りし、中身を見て、非常に喜んだのである。
中身は常滑市の名産「招き猫」で、色は黒(これは魔除けの意味がある)、左手を上げていて、お客を招くつまり商売繁盛の縁起をかつぐ猫である。あらかじめ説明をドイツ語で書いてプリントしてきたので、それを見せたら、すごく納得し、レジの横に置いて「ここがいい。お金がどんどん入ってくる」というので、招き猫が抱いている千万両小判は、日本の古い貨幣だと説明した。
さらに彼女は、うちにも猫がいる(ハウスキャッツと言っていた)が、外にいる、と言って外へ案内してくれた。
いた。屋外だが屋根の下、ベンチが並んでいる奥に、ちゃんと毛布を敷いた自分の居場所があって、おとなしそうな三毛猫が寝ていた。名前はフィービーとのこと。
それから彼女と名刺交換したり、記念写真を撮っている間に、ワイフや長女がオーナー夫人であると気付いて、私に教えてくれた。ご主人は、美味しい料理を出してくれたレストランのシェフで、長女は昨夜見たという。
オーナー夫人から帰国したら写真をメールで送ってほしいと言われたので約束し(記念帳に貼ってくれるらしい)、土壇場に来て、私の目的はほぼ達成できたのだった。もう地下のサウナなどどうでもよくなった。
ときおり小雨がぱらつく中、予定よりだいぶ遅く私たちはホテルを出発した。
今日の最初の目的地はノイシュバンシュタイン城。長女に見せるためである。
昨日の逆コースで、先ず今にも雪が降ってきそうな山越えをし、フュッセンの街に入ると、またホテルゾンネの前を通り、チケットセンターまで1kmしかなかった。ノイシュバンシュタイン城までこんなに近いとは思わなかった。
有料駐車場にティグアンをとめて(5ユーロ)、徒歩でチケットセンターへ向かった。
できれば11時、遅くとも11時半からの見学予約をしたかったのだが、出発が遅れたこともあり、12時15分からの見学予約となった。
行きは馬車で帰りはバスにすることを考えていたが、なかなか馬車がやってこないうちに、日本人観光客が「バスは運休していますよ」と教えてくれた。最悪徒歩で登る場合、坂道が苦手のワイフの足を考えると、いつまでも馬車を待っているわけにはいかなかった。途中で何度も休み休み登ればいいのだと考えて、とうとう徒歩で登ることにした。
しばらく行って振り返ると、馬車がやってきた。
時間的には余裕しゃくしゃくで、あの馬車が来るまで待っていてもよかったのだ。
天気はあまり良くなかったが、雪が積もった山を背景にしたノイシュバンシュタイン城もけっこう美しかった。
見学はガイドツアーで時間制限と人数制限がある。中で日本語の音声ガイドを借りて、見学が始まった。こんな季節、こんな天気でも人気があるのだろう、日本人観光客が多かった。フリードヴィヒ2世のやや悪趣味とも思える贅沢てんこ盛りの内装を見学したが、窓から眺める眼下の眺望は素晴らしかった。
見学が終わった時刻になってもバスの運行は再開していなかった。マリエン橋からの有名な眺めを楽しむことはできなかったが、帰りは馬車に乗ってのどかに来た道を降りた。
今回時間がなくて見学しなかったが、リンダーホフ城も下から見上げると美しい。
チケットセンターの先のホテルレストランに入って軽く昼食を食べることにした。しかし、例によって大盛りで、満腹になってしまった。
クレジットカードでチップを上乗せして支払い、ティグアンで出発だ。目的地は、ミュンヘンのバームクーヘンの店「クロイツカム」に設定した。ワイフの記憶ではマリエン広場の近くらしい。
駐車場から出た方角が悪かったのだろう、ナビが「戻れ」という指示を出しているにもかかわらず、しばらく行くとその指示も消え、目的地までの距離が200kmになった。少し遠回りになったと思ったが、実際はそれ以上で、どこまでも田舎道が続く。アウトバーンをほとんど使わないその道は、運転が好きで好きでたまらない私のために用意された、最後のお楽しみルートだった。
ミュンヘンに着くころは通勤ラッシュだった。午後7時までに最後のホテルにチェックインしようと思っていたので、ミュンヘン市内観光はほとんど無理な時間になってしまった。止むを得ず、店の近くにティグアンを止めて、二人だけで買い物に行ってもらうことにした。
100mくらい手前の道路わきにわずかティグアンを止めるスペースがあった。あと少しで懐かしのマリエン広場だった。
待っている間に、後ろのクルマが駐車違反のステッカーを貼られたようだった。ホテルの住所を入力すると、方向は後ろだった。
二人が目的を果たしてうれしそうに帰ってきた。
名残り惜しかったが出発することにした。
今夜のホテルはミュンヘン空港近くにある。明朝、慌てないためである。ミュンヘン市内から遠ざかるにつれて、町の賑やかさが消え、周囲も暗くなった。郊外に来たなと思う頃、前方右側にクリスマスイルミネーションが輝くホテルが現れた。付近にはそんなホテルは見当たらなかった。駐車場に止めながら、最後までクリスマス気分を味わえるホテルを選ぶことができて幸運だと思った。
小さなホテルだったが、内部も申し分なかった。プチホテルと呼んでもいい可愛いホテルである。
荷物を部屋に置いてすぐ、夕食を食べにティグアンで出た。途中で見つけたホテルレストランである。
混んでいたが入れてくれた。やはり内部はクリスマスの飾り付けがしっかりしてある。そして、地元の人たちだろう、実に客が多く、大きなテーブルに相席で座らせてもらった。犬を連れている人もいた。ドイツに来ていることを肌で感じさせる店だった。アルコールは飲めなかったし、また量が多くて完食できなかったが、嬉しい発見があった。大きな皿の端に添えられていた黄色のフルーツほおずきだ。フルーツほおずきは、秋田高校の先輩で、出身地の上小阿仁村の村長をされている時に出会った小林宏晨(ひろあき)さんが、同村で栽培を始めたことを教えてくれたものだ。
小林宏晨先輩はヴュルツブルク大学で法学博士号を取得された法学者である。フルーツほおずきは学名「ナツハゼ」という食用ほおずきである。先輩がドイツで知り、気候の似ている上小阿仁村でも栽培できるはずと、村長のときに地元の発展のために提案された。フルーツほおずきはそのときの商品名、愛称である。愛知県に住んでいる私のところへもわざわざ秋田県から送ってくれて、その新鮮な食感は覚えていた。
懐かしい味だったが、最後の最後でまたドイツに来たことを実感した瞬間だった。
しっかりチップ込みでクレジットカードで支払った。
帰りにガソリンスタンドで満タン給油した。今回の走行で約79リッター使ったので、軽油代は約1万5千円になる。これは非常に安かった。
代金を支払った売店でビールを売っていたのでレーベンブロイを買った。ガソリンスタンドの売店でアルコール類を販売しているのは日本人からすると珍しい。500mlのボトルを買ったのだが、アルコール度数は低い。寝る前にミュンヘンを味わうことができる。
目覚ましを5時半にセットして寝た。
12月12日(金)「Tschuess ドイツ・・・の風さん」
いよいよ帰国の途につく。名残り惜しいが、最後までベストを尽くさねば、今回の充実した旅行に後悔の種がまかれてしまう。
早々と起きて、荷物を整理し、朝食の約束をした7時までに自分の荷物はすべてティグアンに積み終えた。
ワイフと長女も7時前に荷造りを終えたようで、それらの荷物もティグアンに運んだ。
最後のドイツ料理はホテルの朝食になりそうだったので、やはりしっかり食べることにした。
見ると、ホテルの朝食からフロント業務まで、たった一人の若い女性で切り盛りしているようだ。昨夜もここでは一人の若い女性しか見なかった。少しだけ話をしたのだが、福島県に日本人の友達がいると話していた。今朝の女性はその人ではない。てきぱきと仕事をこなしている。
ローテンブルクのホテルと同じようにゆで卵があったので、食べてみたら、ここでも見事な半熟だった。ワイフと長女はすべてのホテルの朝食で大好物のシリアルをとっている。海外旅行で食事に苦労すると体調が不安定になり、楽しみが半減するが、ここまで好きなものをたらふく食べているのは非常に幸運だった。
今朝は時間があまりないので、朝食を手際よく済ませ、私はチェックアウトにのぞんだ。クレジットカードと暗証番号ですんなり終えることができた。今回何度も使った別れ言葉「Tschuess」を告げた。
さあ、ティグアンで出発という時になって、想定外のことが起きた。すぐ近くにあるミュンヘン空港の目的地設定ができないのである。なぜなら、持っている資料に書いてあるミュンヘン空港の住所らしきものは住所ではなかったからだ。
止むを得ずフロントに走って、別れ言葉を告げたばかりの女性に事情を話すと、すぐに理解して、インターネットで検索してミュンヘン空港の住所を書いて、そのメモ用紙をくれた。さらに、ホテルからどっちの方へどれだけ走ってどちらへ曲がれば、その先に空港があるかまで、手際よく説明までしてくれたのである。なんて気の利いた賢い女性なのだろうと感心しつつ、再度「Tschuess」……ではなく「Vielen Dank!」を告げた。
感動がさめやらないままナビに入力しようとしたのだが、うまくいかなかった(メモの住所は正確で完璧だったが、ナビの地図が古いのか、最後まで検索できなかったのだ)。そこで、さっきの説明が生きた。どうせ空港までそう遠くないのだから、方向さえ間違わなければ何とかなる。
おかげでミュンヘン空港まではたどり着けた。ところが、あまりにも広い空港のため、レンタカーを返す場所がすぐに分からなかった。大きな看板を見て、ターミナル2にあることが分かったが、そのターミナル2も実に広い。しばらく走ってようやくレンタカー返却場所への入り口が見えてきた。
無事レンタカーを返却したが、今度はルフトハンザ航空のチェックインカウンターまでがまた遠かった。そして、そのチェックインカウンターがずらりと並んでいて、どこでチェックインするのかが分からない。こういうときは職員に聞くべきと考えて、ルフトハンザの女性職員にEチケット見せて尋ねると、ほとんどドイツ語しか喋ってくれない。
こうしてようやくチェックインカウンターに行って、荷物も預けたのだが、他の日本人旅行者は、日本人スタッフが対応しているチェックインカウンターを選んでいた。なーんだ、日本人スタッフがいるんじゃん、と思ったが、せっかくドイツまで来たのだから、たとえ日本人スタッフがいると分かっても、自分はドイツ人のチェックインカウンターを選んだと思う。
広い空港内にはクリスマスマーケットまで設営されていた。
国内線でフランクフルト空港まで行った。
帰国便の出発ゲートはZ50で、そこまでがまた遠かった。しかし、たどり着くまでに様々なショップやレストランがあった。
今回の旅行では多くの目的や企画が一つ一つ実現していったが、最後にとってあった自分自身の希望があった。それは、余裕があったらドイツ製の革製品を何か買うというものだった。出発ゲートへ向かう途中でPICARDのショップがあった。展示品を眺めていたら、長女がセール価格のショルダーバッグを発見した。シンプルなデザインと落ち着いた色が気に入ったので、買うことにした。ワイフも珍しい色のポシェットを手に入れた。どちらも実用性が高かった。
免税店でも最後の土産物の購入をした。
そうして、ようやくたどり着いた出発ゲートでリラックスしていたら、知人を発見した。名商大のビジネススクールで一緒だった、つまり同窓生で、互いにフェースブックでヨーロッパに来ていることを知っていたが、まさか帰国便が同じになるとは思わなかった。近寄って行って、偶然の再会を喜んだ。当然ビジネスで来ている彼のはつらつとした姿は、私にはまぶしかった。
ちなみに、私の元勤務先の役員も出張でヨーロッパへ来ていた。また、新鷹会の仲間で夫婦で世界を放浪していた人も、わずかな日にちの違いで同じドイツに来ていて、顔を合わせることはできなかった。世界はかなり狭くなっている。
12月13日(土)「ドイツ旅行が終了・・・の風さん」
帰国便では、私は元気だったが、長女がすっかりばてていた。老いぼれの私と手のかかるワイフの面倒を見ることで疲れてしまったのだろう。
飛行中ほとんど寝ていた長女に比べて、私は元気で、さすがにもうドイツ語の勉強はやめたが、食事は完食したし、映画も2本観た。
それでも、いよいよセントレアが近くなったころ、私の意識ももうろうとしてきた。実はそのもうろうとした意識の間に、飛行機は着陸を途中であきらめていた。空港周辺の風の向きが悪かったらしい。一時は成田空港へ向かうというアナウンスまであったらしいが、私の耳には残っていない。およそ1時間近く旋回を続けたあと、セントレアに着陸した。
わずかに残ったユーロを日本円に換え、1週間預けっぱなしだったアクアに乗って、昼前に久しぶりの我が家に帰ってきた。
やはり飼い猫のペコとちび助の態度がよそよそしくなっていた。旅行中ひんぱんに面倒をみてくれた義母の猫になってしまったのだろう。
私は元気に片付けられるだけ片付けてからひと息入れたが、長女はじきに2階の自分の部屋へ入って寝込んでしまった。
夕食はなんと「きりたんぽ鍋」だった。長女が食べたいと言い続けていたので、冷凍して残してあったという。ワイフのサプライズだった。
今回のドイツ旅行で3人で撮った1000枚を超える写真をデジタルフォトフレームのメディアに入れてスライドショーにして眺めた。
わずか1週間の中身の濃い思い出が、まるで映画のシーンのように次々に現れては消えた。
疲れている長女は幸い明日も休みだが、洗濯などやることが多いので、午前零時前に名古屋のマンションまでアクアで送って行った。
再度帰宅して、今回の旅行の幕が降りた。
12月14日(日)「爆睡(1)・・・の風さん」
爆睡して、起きたのは12時半ころだった。
まだ覚めやらぬドイツ気分に浸りながら、一方で現実に戻る準備も開始した。
出発前にできなかった準備のイベントが今週は目白押しである。
すべて優先順位は高いが、木曜日の非常勤講義の準備から始めた。昨年の講義ではやらなかった経済性分析の2回目となる。
今回の内容は会社経験も関係している。投資判断が含まれているからだ。実業がからんでいる場合は、学生たちに私の経験談を語ることができる。金利の話が出てくるので、ビジネススクールで学んだマクロ経済についても触れることにした。難しい学問としてではなく、きわめてベーシックな話だ。「景気」「物価」「為替」と「金利」の基本的関係である。
世界を支配している経済と企業の中で頻繁におこなわれる投資判断。それらは超マクロと超ミクロで関連性は遠いが無関係ではない。
例によってエクセルによる経済性分析の取り扱いは軽いものにしたが、良い資料ができた気がした。
月初に出版した『星に惹かれた男たち』をあちこちに贈呈したが、そのお礼が届き始めた。エビで鯛を釣るような形になって何とも申し訳ない気持ちだ。かなり厳選したので、反応は少ないと思っていたが、多かった。
12月15日(月)「爆睡(2)・・・の風さん」
昨夜も爆睡で、12時半ころ起床した。
明日から上京するので、昨日の続きをやらねばならない。
先ず、短時間でできそうな木曜日の「とこなめ会」の準備に着手した。30分ほどのスピーチである。
2部構成にすることにした。作家らしい話と、ドイツでプレゼントした招き猫の話だ。
地域の活性化のための交流会で、ビジネス関係の人たちが多いので、作家が語る小説技法と読者の定義は興味をひくだろう。この部分は「作家が語る創る価値と読む価値」である。
招き猫をドイツのリゾート地のホテルにプレゼントしてきた話は、常滑地区の人たちには歓迎されるだろう。クリアブックに関係資料をはさんで回覧できるようにした。
次は、明日のトークセッションである。新刊出版記念で、場所は恒例のジュンク堂池袋本店である。
講演会ではないので、内容のさわり紹介に相当する30分程度のスライド資料にした。あまり詳しく語ると、本に書いてないじゃないか、と叱られそうだ。どれだけの人が買ってくれるか分からないが、先着30人分のささやかなプレゼント(ドイツ土産)も準備した。
しっかり寝たので、作業を継続することができ、何とか間に合った。
12月16日(火)「恒例のトークセッション・・・の風さん」
小雨が降る中、最寄りの駅まで歩いた。
名駅のATMで少し現金をおろした。今回の上京は比較的自主企画なので、出費はできるだけ抑えなければならない。
新幹線の車中では、もうすぐ今年の過密スケジュールが終了することを感慨深く思った。
新横浜でおりて、在来線を乗り継ぎ、最近の定宿へチェックインした。たまったポイントを5000円分利用した。
荷物を整理して、トークセッション用にまとめ、ホテルを出た。
相変わらず小雨がぱらついている。
予定通りの時刻に池袋に着き、腹ごしらえをしようとデパートのレストラン街へ入った。
スパゲティを注文して待つ間、ふと周囲を見回すと、「壁の穴のエピソード」を書いたチラシが目に入った。
私の生まれた1953年から由来が書いてあった。それも偶然だとは思ったが、壁の穴のスパゲティには思い出がある。大学院生時代のことだ。
神戸に行ったとき、文通していた女性が案内してくれたのが壁の穴で、スパゲティが美味しいと評判だと教えてくれた。
あれからもう35年以上が過ぎ去った。……。
今夜のトークセッションでは何かロマンチックな出会いがあるような期待感が胸に満ちてきた。
ジュンク堂で担当者と会い、準備を始めたが、店舗側の会場作りを初めて見て、その大変さに胸を打たれた。喫茶室のテーブルを次々に非常扉から非常階段の踊り場へ出すのである。
事前予約で「満員御礼」になってなかったのは悔しかった。ずいぶん諸方面へ通知したのだが。
しかも今日は雨で、そもそも店舗の来客数が少なかった。ついでにトークセッションを聴いてみようという人は少なそうだった。
それでも、知人や友人がたくさん来てくれたので嬉しかった。
予定通りトークを1時間で終え、苦手のサイン会もして、ようやく自主懇親会となった。
今夜初めてお会いした上山昭博さんも参加してくれ、ほとんど彼と話し込んだ。
電車の時刻が迫ってきたので、私だけ先に失礼し、ホテルへ向かった。
ホテルには午前零時過ぎに戻ることができ、それから午前2時半過ぎまでメール送信に時間をかけた。
12月17日(水)「充実した打ち合わせ・・・の風さん」
夕べ遅くまでメール送信を続けていたので、寝不足で起きられなかった。
午前中の打ち合わせ開始時刻を10時と約束していたが、30分遅らせてほしいとメールして、とりあえず30分の余裕を作った。
このホテルはゆったりと朝食を摂ることができるので気に入っている。しかし今朝は、超特急の15分で済ませた。
30分遅れでチェックアウトしたが、予定してある電車の組み合わせは30分遅れでは再現できなかった。
昨日の雨はすっかり上がっていて、まだ寝不足だったが、気分は上々だった。
東京タワー近くのJMA本部に着いたのは、再約束した10時半寸前だった。
来年の2月に新しい研修の講師をすることになっている。意見交換はメールでもやれないことはない。しかし、フェースツーフェース(現地現物)を基本としている私としては、上京する機会があれば、なるべく打ち合わせることにしていて、今日も幸いその時間がとれたのである。
昨夜のトークセッションの話やドイツの土産話を簡単にしてから本題に入った。
早速、相手から最近気になっている事柄について、私の意見を求めてきた。
私はすぐに関連する情報を盛り込んだPPTスライドをMacbookAirで示し、長年の経験談を語った。
「それって、標準化できませんか? つまり、普遍化するというか……」
「フレームワークですね?」
「そう。それです!」
創造的な仕事というものは、コミュニケーションの中で進展していく。特に、異なった立場や知識・経験を持った人の間で、それは促進される。
科学的なイノベーションと同様である。
11時45分で密度の高い打ち合わせを終了し、私は次の目的地へ向かった。人形町である。
帰国してから食事の量を意図的に少なく制限している。ここはドイツではないし、空腹や体力不足で足元が危なくなっても何とかなるはずだ。
この辺を歩くのは2度目である。キャメロンで東京から帰ってくるとき、新東名の浜松SAでよく寄るカフェと同じ系列の店があったので、そこで喫茶だけの昼食にした。
時間調整して、約束の2時に先方に着いた。
打ち合わせのテーマはなかなか難解なもので、解決の糸口はちょっと見出せない。それでも、午前中の打ち合わせと同様に、コミュニケーションが最良の解決策になるとは思っていた。
そしてさらに、今朝未明というか昨夜の最後のメールで、自分の考えを相手に送信してあった。
たくさんの本を抱えた部長がやってきた。
何だろう、と思っていると、先ず昨夜のトークセッションが面白かったという感想を述べられてから(わざわざ来てくださったのだ)、テーブルの上に広げた本を示しながら、出版社としての方針を実に丁寧に語ってくれたのだ。
大きく分けてそれらは3つに分類された。
そして、私が当初企画提案したスタイルが、それらのどれにも該当しないことが分かった。
あとは、今朝未明に送ったメールの内容が、それらにフィットするかどうかだった。
私というマルチでとらえどころのないキャラは、部長にとって非常に厄介な問題だと最初から言われていた。とても出版社側から企画提案するのは難しいと吐露されていた。だから、この時点で、もしかすると、今朝未明の提案も、先方には受け入れがたいと言われるかもしれないと思った。
ところが、部長からは、分類された3つすべてに対して、これらの枠組みに入れられる原稿がいただければ、ぜひ出版したいと逆提案されたのである。私は内心驚いたが、超前向きの思考しかできないので、3つそれぞれに対する企画は絶対にできると確信した。
濃密な打ち合わせは時の経過を忘れ、既に4時半を回っていた。
長時間を費やしていただいたことに感謝の言葉を述べるとともに、必ず近いうちに企画提案しますと約束して出版社を後にした。
余裕のあるスケジュールを組んでいたが、ギャラリーオキュルスに寄る時間がなくなってしまった。
帰りの新幹線車中で、充実した今日の打ち合わせ内容を反芻しながら、いよいよ執筆に軸足を置いた日が近いことを感じていた。
12月18日(木)「とこなめ会でドイツ招き猫報告・・・の風さん」
朝起きると外は雪が降っていた。悪い予感がした。
階下へ降りると、ワイフが名古屋が20センチも積もった大雪で、交通はマヒしているという。
朝刊をチェックすると、午後からは晴れのマークだったので、何とかなるかもしれない、と思った。しかし、否定的な考え(心配事)が得意なワイフは、もう私の午後のスケジュールは無理だと断定していた。
今日は、夕方から愛工大の非常勤講義があり、終わってすぐ名古屋高速と知多半島道路を突っ走って「とこなめ会」へ行き、30分間のスピーチが予定されていた。どちらも準備はできている。重要なのは、電車や地下鉄の乗り継ぎでは、このスケジュールはこなせないことだった。第一に「とこなめ会」へ販売用の拙著を持ち込めない。第二に、体だけ間に合わせようとすると、愛工大の講義は30分間で切り上げなければならなかった。それも電車が定刻に運行されている場合だ。
午後になっても雪は止む気配がなかった。
「とこなめ会」の事務局に電話して、降雪が続いても会の中止はないということを確認した。今日は本の販売も重要だが、ドイツへ招き猫を持って行った報告がサプライズとして用意されているので、これを1ヶ月後に延ばすことはできなかった。
そして、ついに本山キャンパスへ電話し、今日の講義の休講を連絡した。これは事務室をひどく混乱させる結果になった。なぜなら、今から私の講義の受講生に休講を知らせなけれなならないからだ。申し訳なかったが、あとで謝罪と何か修復の工夫が必要である。
夕方には雪は止んでいた。午前中封鎖された名古屋高速や知多半島道路が復旧したかどうか、確認している余裕はなかった。電車のダイヤが正常になっているかも確認する余裕はなかった。午前中のフェースブックで、通勤で苦労する知人・友人らの書き込みが、まだ頭に残っているばかりである。
復活して3回目の「とこなめ会」に2度目の出席となった。前回より気持ち的にゆとりがあった。
受付の隣のテーブルに持参した本を並べて仮設書店ができた。
事務局には私のスピーチのレジュメは始まる寸前まで配布を待ってもらう。サプライズの内容が含まれているからだ。
全員にお土産のドイツのチョコレートは澤田酒造の社長が自ら席に配って歩いてくれた。
2部構成の話を予定通り30分で終え、乾杯の後、私は各テーブルを回りながら、交流に努めた。
来月は非常勤講義を優先させるので、この会には出席できない。力いっぱい鳴海風をアピールした夜だった。
12月19日(金)「今日は順調にスケジュールをこなす・・・の風さん」
一夜明けたら快晴である。これが昨日だったら、すべて予定通りこなせたかもしれないのに……。
愚痴を言っていても仕方ないので、やるべきことをどんどんこなさなければならない。
午前中、かかりつけの病院へ行ってきた。血圧の経過観察と薬の処方である。前回とあまり変わりはないが、また薬を変更した。しばらく薬の種類とその効果を実験的に調べていく作業が続きそうだ。
帰宅したら、昨日Amazonに注文した品物が届いた。やけに早いと不思議がっているうちに思い出した。常に「お急ぎ便」が無料で選択されるプレミアム会員の体験登録を解除し忘れていたのだ。既に、手遅れ。巨額の年会費が支払われてしまった。
ワイフを連れて外出。午後は用事が色々と続く。
以前行ったことのある常滑のレストランでランチ後、昨夜の「とこなめ会」の会場「常滑屋」へ行った。お正月飾りの展示を観たいとワイフが言ったからだ。挨拶すると「昨晩はドイツのチョコレートありがとうございました」と言われた。かなり残ったので、お店にプレゼントしたからだ。
キャメロンの自動洗車と満タン給油をした後、お世話になっている某社の会長に、今朝届いたばかりの品物を届けた。
帰途、JAのATMで現金をおろした。
帰宅し、私はまだ元気だった(気がした)ので、それから筋トレに出かけた。
帰国後初めての筋トレだったが、調子はよかった。これなら来年へ向けて基礎体力の復活ができるかも、と思った。
12月20日(土)「ホテルゾンネにメール・・・の風さん」
やっとドイツのロマンチックホテルゾンネのオーナー夫人に、写真とメールを送れると、9時過ぎに勢いよく起床。
ところが、やけに気温の低さを感じた。
ホテルをチェックアウトした朝に皆で撮った写真だけでなく、ドイツに招き猫を持って行ったことを報告した「とこなめ会」や、その招き猫を買った店の写真なども一緒に送ることにした。
簡単な文章を考えて、英語とドイツ語の両方に翻訳した。二つの言語でメールを出せば、合わせ技で意思は伝えられると思ったからだ。
しかし、これがけっこう大変な作業になった。
そして、その作業をしながら、どんどん体調が悪くなっていったのだ。
最初は花粉症の再発かと思って強い薬を飲んだのだが、いっこうに効く気配がなかった。
午後遅くやっとメールは送れたが、どうも風邪らしいと思い始めた。このところの過密スケジュールで抵抗力が落ちていたのかもしれない。
それでも、デスクワークぐらいできるだろうと、やっと気まぐれ日記の更新に着手。ドイツ旅行初日を楽しく思い出しながら書いた。
風邪はひきはじめが重要で、そこで一気に治してしまわないと長引く。
風邪薬といつものスペシャルホットミルクセーキを作って飲んで寝た。
12月21日(日)「自宅でグリューワイン・・・の風さん」
しっかり寝たつもりだったが、風邪が完治した気配がない。
気まぐれ日記の続きを書いて、ようやくネットにアップした。まだ先は長い。いつ現実と同期できるか予想が立たない。
今日も、ひたすら風邪薬を飲みながら、体力温存しつつ、風邪の全快を祈った。
しかし明日は、草津まで行って某社で(エンジニアとして)短い講演をするので、そのスライドを用意しなければならない。
講演の骨子は思い付いたが、スライドがなかなかできない。体調不良のせいだ。
夕食時、ワイフが自家製のグリューワインを作ってくれた。私の風邪を治すためではなく、あの懐かしい味を忘れないうちに再現しようと挑戦してくれたのだ。
実は、私も気になっていて、帰国後、ネットでレシピを少し調べてみた。多くの日本人が挑戦しているようで、何通りものレシピがヒットした。やはり本場のものは秘伝とか地域色みたいなものがあるのだろう。基本は、赤ワインをオレンジジュースで割り、シナモンを入れて温めるらしい。
ワイフが作ったものは、それらを参照することなく、全くのオリジナルらしかったが、私にはとてもよく似たグリューワインができたと思われた。これから、ワイフの機嫌が良ければいつでも作ってくれそうだ(笑)。
講演スライドは午前1時にやっとでき、それから入浴して体を温め、またホットミルクセーキと薬を飲んで寝た。グリューワインの効果も合わせて、明朝には元気に起床したい。
12月22日(月)「咳が止まらなくなった・・・の風さん」
今日は冬至である。気温はまだまだ下がるが、明日から少しずつ日が長くなっていくのは嬉しい。
8時半に元気に起きた。
ドイツへ行く前に買った長袖の下着とタイツを着込んだ。どちらもヒートテックである。ドイツでも後半は不要だと判断して着なかったが、風邪が治りかけている今日は、草津まで遠出するし、現地では工場見学もあるので、万全の態勢を整える必要があった。
名鉄と新幹線で京都まで行き、そこから在来線に乗り換えるのだが、人身事故で大幅にダイヤが遅れていて、50分くらい前の電車で草津にほぼ予定通りの時刻に到着した。
そこから会社の迎えのバスに皆で乗って、某社の滋賀製作所に行った。
私のプレゼンは、前もって送ったレジュメ(今日印刷して全員に配布)を充実させておいたので、要旨を手短に説明して終えたのだが、大きな声でしゃべり続けたので、終わったら喉が痛くなった。
その後、工場見学や質疑応答の交流会(今日はJMAの生産技術マネジメント研究会のオプション行事だった)があり、現地を去るころには、咳が止まらなくなり、非常に苦しい体調になってしまった。
それでも、予定時刻通りにきっちりと終了したので、草津からの在来線で、事前予約してあったエクスプレス予約を、スマホを使って、30分早いのぞみに変更することができた。
最寄りの駅までワイフに迎えに来てもらって、今日の大任を終えたが、体調は最悪だった。
12月23日(火)「ワイフの実家へ行くのを中止・・・の風さん」
起きたのは11時半だった。ほとんど病人である。
今日は、ワイフの実家へ一緒に年末の挨拶(というかドイツの旅報告)に行く予定だったが、ワイフに止められた。
幸い発熱はないが、この咳は風邪に違いなく、老義父母にうつしたとんでもない親不孝者になってしまう。
素直にワイフの警告に従うしかなかった。
我が家の救急箱を漁っていたら、咳止めのカプセル薬があった。今まで気が付かなかった。それで、狂喜した私は、今日からそれを飲むことにした。家でもマスクをすることにして、だんだん効果が出てきた気がする。
明後日の愛工大の非常勤講義では、先週できなかった講義を補講として、たまたま空いた前のコマでやらせてもらうので、一日に二日分やることになる。その準備をゆっくりした。
そうして、今日はおとなしく家で留守番しながら、少なくとも咳だけは治そうと思った。
12月24日(水)「地元の新聞社の取材・・・の風さん」
昨夜、ドイツのホテルから待望の返信メールが届いた。すべてドイツ語で、一読して意味が分からないため、ネットで5通りに翻訳してみたが、どれもこれも変な訳ばかりだった。何となく分かったのは、最後にジョークが書いてあったことだ。
商売繁盛の招き猫のご利益は、今度ドイツへ来た時にホテルに寄ってもらえば分かるでしょう、というもの。
これで招き猫物語はいちおう終了した。
救急箱の中で発見した咳止めが効いている。ラッキーと思いつつ、箱の外側に印刷してある使用期限を見たら、なんと2011年だった!
死ぬことはないだろう(死ぬならもうとっくに死んでいる)。それより咳を止める方が大事だ。今日は、午後、地元の新聞社の取材を受ける。
2年前も執筆したエッセイに私の顔写真を入れるため、わざわざ名商大の伏見キャンパスまで来てくれた人だ。
日程の都合で、自宅に来てもらうことになってしまった。
最寄りの駅まで迎えに行った。
すぐに書斎へ通し、新刊出版の背景を説明したが、参考になる資料は用意しておいたので、十分過ぎるくらい提供した。
続いて、リビングでコーヒーを飲みながら雑談し、最後に庭のログに案内した。
今日はワイフが午前も午後もトールの教室をやっているので、記者の接待ができなかったのだ。
ちょうどよいタイミングの電車がある時刻に、最寄りの駅まで送ることができた。
来年早々の文化欄で、私を紹介してくれるとのこと。
地元の新聞は、会社の同僚をはじめ多くの知人が読んでくれる可能性があるので、こういった取材はありがたい。
12月25日(木)「今年の仕事納めは半徹夜明け・・・の風さん」
昨夜はビーフシチューだったので、ワインを1杯だけ飲んだ。ところが、それだけで酔っ払ってしまい、すぐに仕事に復帰できなかった。
今日は今年最後の非常勤講義があるので、その準備が残っていたのだ。
結局、半徹夜状態で、講義の資料を作成した。
寝たのは5時半で、起きたのは9時半である。
また、風邪がぶり返すのではないかと心配だったが、何とか起き上がれた。
しかし、相変わらず喉は本調子でないので、今日はせっせと喉飴をなめていた。
地元の図書館に電話してみたら、新刊の寄贈に行けるのは年内は今日しかないことが分かった。
それで、あわてて図書館へ本を持って行った。
来年の1月17日には、マイスタディ講座の文集を完成させるので、その打ち合わせもあったし、ささやかなドイツ土産を渡す必要もあった。
バタバタしているうちに本山キャンパスへ行く予定時刻を過ぎてしまい、知多半島道路と名古屋高速を利用することにした。
1時間もかからずに到着した。体調が万全ではないので、片道だけでも有料道路を使うべきだろう。
本山キャンパスではドイツ土産のチョコレートが意外と受けた。ドイツのチョコレートは有名らしい。
連続して2コマの講義はけっこう大変だった。
講義終了後、講師控室で朝日新聞を拾い読みしながら体調を整えて、家路についた。帰りは一般道である。
途中で灯油も購入した。原油価格が下がっているので、灯油もガソリンも値下がりしている。
今日は、今年の、外での仕事納めとなった。本当に多忙な1年だった。よく乗り切ったと自分でも感心する。
12月26日(金)「外の用事を一気に・・・の風さん」
早朝から電車で出かけるワイフを送ると宣言しながら、布団から出られなかった。
結局、11時半まで寝ていた。ダウンしていたということだ。
家の用事をしてからキャメロンで出かけた。
心月斎に行き、年末の挨拶を兼ねて、恒例の新刊本の寄贈をした。あと、約1時間の雑談。
それからカリチューへ行き、同じく年末の挨拶を兼ねて、恒例の新刊本の寄贈。どちらもドイツ土産がなくなってしまったので、ミニボトルを。もっとたくさんチョコレートでも買ってくるんだったなあ。
最後に歯科医院に行き、定期健診というか歯石除去。自分の歯を長く使い続けるためには、歯茎の健康が最も重要で、そのための歯石除去は欠かせない。
歯科医院は長年勤めた会社の本社近くである。今日が年末最後の出勤日だから、恒例の席の移動やら大掃除やら、社内の様子が目に浮かぶ。
冬期連休に突入する会社員で道路があふれる前に歯科医院を出ることができたが、それでも道は混んでいた。
午後7時にやっと家に着き、片付けをしてから、電車で帰ってくるワイフを迎えに行く準備……と思ったら、そのワイフが帰宅した。
駅から難儀な坂を登って徒歩で帰ってきたのだ。
私がもっと早くiPhoneを見ていたら、片付けなどせずに駅まで直行したのだが……。
夫婦仲とは関係ないが、夜になってひどく冷え込んできた。
京都から帰省してくる長男は、途中で友達と会っていて、帰宅したのは、私が寝た後だった。
12月27日(土)「休養日・・・の風さん」
疲労がたまっているのだろう。起床したのは12時半過ぎだった。
カーテンを開けると空は快晴だった。
屋外のタンクに灯油を補充したり、止まっている時計の電池を交換したり、たらたらと過ごした。
月末というより年末なので、たまっているポイントも使おうと、ネットで印鑑や本、DVDなどを発注した。
夕食後、フィギュアスケートの男子フリー生放送を観た。羽生弓弦選手の異次元の強さに圧倒された。
ところで、男子の選手層の厚さに比べて、女子はトップ選手の相次ぐ引退や休養で、輝きが薄れている。
今日はあまり無理をしない一日だった。
12月28日(日)「年賀状印刷に集中・・・の風さん」
年賀状印刷が土壇場になった。いくら何でも今日中に完成させなければ。
先ず、昨年以前の年賀状とその記録を引っ張り出した。一昨年は、母の死があって喪中だった。ずいぶん前のことだったような、ついこの間のことだったような。人生の明らかな節目(還暦)を前にして、大きな出来事だった。そして、昨年はそこから復活ののろしを上げるような年賀状を出したのだった。
と、ここで、急に気になる事態が起きた。年末になって一気にたまった名刺の整理である。これは住所録の更新に近い重要事項である。大量の名刺を管理ソフトの中に保管しなければならない。
名刺の整理にほぼ半日を費やしてしまった。
それから、過去の年賀状の記録を確認しながら、最新の住所録を印刷した。これで、何枚の年賀状印刷が必要か判明した。192枚だった。
夜になって、ようやく年賀状のデザインの検討に入った。
昨年の年賀状で作家に専念と宣言したにもかかわらず、それができていない実態は否定できない。
今年は短い文章を書くことだけで、全体のデザインにはこだわらないことにした。
こうして、192枚すべての年賀状の絵柄と宛先を印刷し終えたのは午前1時過ぎだった。
ホッとした。
12月29日(月)「長女と盛り上がるドイツ思い出話・・・の風さん」
年末最後の外の用事を一気にこなすことにした。
起床は午前8時。
キャメロンで最初に向かったのは郵便局だ。そこで、年賀状だけでなく、ワイフと私のゆうパックを2つ出した。
それから、某コンビニにあるATMで振り込み。続けて、薬局に行き、痛み止めの薬などを補充購入した。
急いで帰宅し、ワイフを乗せて、再び出発。電車を乗り継いで名駅へ。
レストランの前で長女と合流してパスタでランチした。ドイツ旅行以来、2週間ぶりの3人での行動である。
今日は長女が休日で、埼玉県まで誰かのコンサートを見てきたお土産をもらったりした。
その後、ゆっくりショッピングをし、また喫茶室でケーキを食べて、夕方別れたが、ドイツの思い出話がひんぱんに出てきて、また行きたいということで3人の気持ちは一致したが、軍資金を出す私の頭は、めまぐるしく回転し、ほとんどオーバーヒートしていた。
実は午後から非常に首が痛かった。頚椎症が出たのだ。疲労が蓄積し、筋肉も弱っているので、持病が悪化したというわけだ。
買ったばかりの痛み止めの薬が早速役に立った。
夕食後、いよいよ追い詰められたワイフの年賀状作成に協力した。
結局、私と似たステップで印刷へたどり着くことになるのだが、頑固なワイフは何とか要領よく終えてしまいたいらしく、なかなか私の提案に乗って来ない。毎年のことなのだが、急がば回れ、ということをしたがらない。
でも、とうとう諦めて、私のやっているステップにしたがって、年賀状作成にとりかかった。
すべて終了したのは、午前3時ころだったが、これが一番確実で早いステップだと思っている。
今年はまだ1枚も年賀状を無駄にしていない。
12月30日(火)「頚椎症で苦しむ風さんの巻」
朝起きてしばらくしたらまた首が痛くなった。今回はちょっと重症だ。無理無茶無謀な生活を続けてきたからなあ、今年は。
ワイフの住所録ファイルもしっかり作っておいた。
たまっているポイントで、名刺管理ソフトをバージョンアップした。データをエバーノートへアップする機能がついている。
久しぶりにエバーノートへアクセスし、試しにやってみたら、あまりにもデータ量が多くて、4分の1をアップロードしたところで、同期がストップしてしまった。年が明けてから再トライしてみよう。
この気まぐれ日記の続きも書いたが、まだだいぶ残っている。明日、残りを頑張って、一気に大晦日まで更新したい。
夕食後、首が痛くて仕事ができないので、テレビでレコード大賞を観た。近年歌番組が減っているだけでなく、さっぱり音楽を聴かなくなってしまったので、誰が受賞するか予想も立たない(自分の好みでは言えるが、世の中の判断基準が分からないという意味だ)。
EXILEから派生したグループが受賞した。彼らを観たのも初めてだし、聴いた曲も初めてだが、不満はない。
この番組が終わってもまだ首が痛かったので、続けて、プロ野球の戦力外通告された選手の行く末を追うドキュメンタリー番組を観た。
トライアウトの様子も見たが、今回取り上げられた選手の結果は、私から見ても納得できる内容だった。横浜から楽天に移る藤江は、来年きっと活躍するだろう。オリックスから中日に移る八木は、来年相当に厳しい生き残り競争を戦うことになるだろう。肉体を壊す寸前まで自分を追い詰めることができるかどうかがポイントになる気がする。中日はそういうチームである。来年の両選手に注目したい。
やっと首の痛みが引いたので、昨日から取り組んでいる22日の出張報告書作成の続きをやった。これは会社の仲間に提供する。
12月31日(水)「穏やかな年の瀬・・・の風さん」
今日も朝から首が痛い。起きてすぐ痛み止め薬を飲んだ。
朝食にワイフがぜんざいを作ってくれた。
ぜんざいパワーで、二人で心月斎へ墓参りに行った。
既に墓参を終えたお墓ばかりで、供花の彩りで、墓地は賑やかだ。ほとんど風もなく、空はどこまでも青く、穏やかな大晦日になりそうだった。
たっぷり香華をたむけた後、ワイフのiPhoneでお墓の写真を撮った。ラインにのせて、子供たちに見せることにする。
帰宅して、一昨日から始めている22日の出張報告書の続きに取り組んだ。
A4用紙で7枚の立派な報告書ができてしまった(笑)。これは年明けに会社に持って行って回覧してもらうつもりだ。
昨夜の豚汁を1杯すすってまた痛み止め薬を服用し、ホームページの更新に取り組んだ。
これはかなりの分量で手こずったが、夕食前に終えねばならなかった。
年末恒例の、今年の成果を以下に書きとめておこう。今年は確かに忙しかった。
●出版
共著『工場長の教材』(日本能率協会)2014年6月
単著『星に惹かれた男たち』(日本評論社)2014年12月
●アンソロジー
新鷹会傑作時代小説選『たそがれ江戸暮色』光文社文庫(2013年6月)
に短編「木星将に月に入らんとす」が収録された。
●読み物、エッセイ、随想
半田法人会『歩一歩(ぽいっぽ)』平成26年1月号
に「夢は叶う! 一生、挑戦!」の取材記事。
デンソー技術会『sandpit』(2014年1月号)
に『和時計を見に行きませんか』掲載。
日本セラミックマシナリー協会の『JCMA』2014VOL.50
に2013年度 新春講演会
「NIPPON発のモノづくり」〜和算を生んだ国の強みとは〜の講演録。
『咸臨丸子孫の会 20年の歩み』(2014年3月17日発行)
に『小杉さん似のいい男』掲載。
中産連の月刊マネジメント専門誌「プログレス」2014年4月号
に『名人になれなかった渋川春海の栄光』掲載。
中産連の月刊マネジメント専門誌「プログレス」2014年5月号
に『伊能忠敬の運命をかえた天文方』掲載。
中産連の月刊マネジメント専門誌「プログレス」2014年6月号
に『咸臨丸航海長小野友五郎』掲載。
「数学文化」第22号(平成26年8月発行)
に『建部賢弘をめぐって』掲載。
『日本推理作家協会報』(12・1月号)
に「サラリーマン作家の終焉(冷やかし)?」掲載。
●講演、トークなど
本荘由利校長会「新年講演会」(2014年1月10日)
「質屋の主人がつくった天文からくり時計」
日本セラミックマシナリー協会新春講演会(2014年1月27日)
「NIPPON発のモノづくり −和算を生んだ国の強みとは−」
常滑鉄工会記念講演会(2014年4月25日)
「NIPPONのモノづくりの強みとは」
愛知淑徳大学キャリアデザイン講義(2014年4月26日)
「一生かければ何でもできる −私の履歴書−」
半田法人会記念講演会(2014年5月16日)
「世界を驚かせた江戸の天才数学者たち」
岩倉市生涯学習講座 第1回(2014年5月31日)
「初代天文方 渋川春海 −碁師としての挫折と改暦への挑戦−」
日本数学協会総会 記念講演会(2014年6月1日)
「建部賢弘をめぐって −円周率が鳴海風を作家にした?−」
岩倉市生涯学習講座 第2回(2014年6月21日)
「伊能忠敬と天文方 高橋至時・景保 そして間重富」
美浜ふるさと研究会で講演(2014年6月22日)
「美浜町だから生まれた小説」
名古屋三蔵塾例会で講演(2014年7月19日)
「児童文学に込めた想いと成り立ち」
岩倉市生涯学習講座 第3回(2014年7月19日)
「小野友五郎 −咸臨丸航海長から鉄道敷設、製塩事業へ−」
長野県数学会夏季研修会で講演(2014年8月7日)
「和算発展の導火線に火を付けた男 吉田光由」(午前)、
「碁師としての挫折と改暦への挑戦」(午後)
神戸の企業研修でサービス講演(2014年8月22日)
「渋川春海 −碁師としての挫折と改暦への挑戦−」
建部賢弘生誕350周年記念一般公開講演会で講演(2014年8月24日)
「建部賢弘の生き方から学んだもの」
F社技術士会「車座企画」(第25回)で講演(2014年8月27日)
「江戸の天才数学者と科学技術への展開」
Takebe Conference 2014 で英語でショートプレゼンテーション(2014年8月28日)
「The background of my nevel about Takebe Katahiro」
C−NET講演会で講演(2014年9月12日)
「江戸時代の暦が現代の日本に伝えているもの」
C社生産技術者向け講演会で講演(2014年10月1日)
「モノづくりへの想い」
ジュンク堂池袋本店 トークセッション
「星に惹かれた男たち −江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬ー」(2014年12月16日)
地域活性を目的とする交流会「とこなめ会」例会(第3回)でテーブルスピーチ
「小説を読む価値、創る価値」(2014年12月18日)
2015年1月はここ
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